ripples

なんともない日

バチェロレッテ


・健康的なバチェロレッテ、陽の人


・そりゃそういうよねっと言う返し。スタジオでもそうだったけど。善、良、の答えならそうだよね、っていうか。模範解答意外の反応がない。相手が追う側じゃなくなったとき、楽しい感じが想像できないと思ってしまった。ど偏見やこれ。

 

・アドバイス求められてないのにアドバイスしまくってた。雑談の概念ないのか…限られた中から選ぶ状況だから仕方ないか。


・男たちは好きになる前に好きアピールをするしかない。そのうちほんとに好きになるんかな…雰囲気で好きになるやつもいるし、絶対合わんから正直帰りたいって人もいるやろな…

・よし!好き!って気合入れるしかない

 

・サムライ、クソ腹立つ!みたいなこと言って筋トレしてただけで終わったのわろたw

終わらす気持ちはわかるけど笑

 

・男たち楽しそう

 

・ずるい女の言い方何かすこ、終盤まで残ってないけど一番熱くて人間感あって好き、こんなグジグジ書くんじゃなくて、あんな感じで感情爆発して生きれたら楽しそうや


・フジタツ的な人も必要、自分のことを理解しなくてもいい、弱々しく吐き出してたけど「自分の過ごした後に道ができる論」って言うのもまた良いと思う。適当に出たのか本当に思ってんのかはわからんけど。


・みんながみんな自分のこと理解してきちんと意見言えるわけじゃなくても、思うが、バチェラーやバチェロレッテはそれを至高と捉えている。前回のバチェラーとこの人は自分はそう思う!自分の中で正しいと思うことした!というので、終わらせる点では同じ。


・自分の理解できない人にほんとのところで、理解や迎合する気持ちがないと思った。口では自分には合わないと言うからあれだろうし、善の最適解を言うが、そう感じた。


リアリティ番組などの出演者側の意見として切り取った一部しか見てないのに!というのがあるけど、対面の人付き合いだったとしても、相手に一部の自分しか見せること知らせることはできないし、だからって、見えてる部分だけで判断するな!って怒るのは変に感じる。第三者が見せる部分を選定すると言う点で大きく違うと言うのはあるけれど違和感ある。


・相手を探すとき、理想100パーセントの人を探しているのってなんだろうか。自分にも言えるかもしれないけど付き合いの中でお互い歩み寄ったりすれば良いのではないかと思ってしまう。スマートな人にはスマートな理由があると思うけど、過去はどうあれ今が理想な人ならそれでいいというものか。難しいところだ。

最近の過ごし方びぼうろく

最近の過ごし方びぼうろく

 


近頃仕事のある日のスケジュールはこうだ

5時〜6時しごおわ

食材を買う

料理する

お風呂に入る

夜ご飯をたべる(作ることもある)

明日のおべんと作り

アニメみたり、本を読んだりを友達と電話したり

友達とスマブラとかする

寝る

 


特別面白くもないのだが、26歳終盤の備忘録としてもう少し細かく書いていく

 


食材は商店街で買っている

最寄り駅の飲食店にたくさん行きたい派だけど、お酒はほとんど飲めない。そうなると夜行けるお店は少ないから、ランチに行きたい店はまだまだあるが夜の方はほとんど制覇してしまっている。なので、家で作る。

最近大同電鍋というものを買った。金額は1万2000円。見た目も用途も炊飯器みたいな感じだと思ってくれたらいい。思ってくれたらいいというか台湾の炊飯器なのである。

コンセントを指すタイプ。できることは主に蒸すと煮ると炊く、温める米を炊くのはやり方を間違えて失敗に終わっているが、それ以外は易々と成功した。加熱の仕組みは蒸気。できることは加熱と保温のボタンだけ、時間は水の量で調製。タイマー機能はありません。これを買ったおかげでとても自炊が楽になった、鍋的なもの、シチュー、煮物、蒸す、温めるものをぽいっと放り込んで適当に水をいれる。あたためをスタートしてお風呂に行く。電子レンジが空くのでこっちで別のものを温めてもいい。

 


お風呂上がったら出来上がっていたり、いなかったりするので、皿洗いをしたり、明日のお弁当を仕込んだり、YouTubeみたりしている。料理中は太田上田を見て聞いて過ごしてることが多い。なんといつのまにか90話くらいまできてしまった。どんだけハマっているんでしょうか。

 


そんなこんなんでもろもろおわったら、

椅子に座ってNetflixを開く、最近見ているのはfate、何かを見るときできる限り放送順に全て見たいという願望があり(呪い)

膨大なfateシリーズを1から順にみている。

面白い、面白いのだがめちゃくちゃ数多くて苦戦している。個人的にプラズマイリヤというのが百合ロリアニメ多めの作品でなかなかの難関だった。あまりどちらにも興味がないからである。とはいえシーズン4までは見終えた。最初は好みに合わないかなと思っても、知っていくと面白いこともあるから、外すことはできないのである。

 


本は今も村田沙耶香さんの本。

今読んでるのは「地球星人」

これまで読んできた村田沙耶香さんの作品の中では、一番主人公に苦難が降りかかっていると思う。というのも、これまで読んだ作品の主人公たちは、周りの要因があるとはいえ、自分の考え方や意思を尊重した結果、作品内の世間から少し外れたような事態になったり、巻き込まれたりしていた気がする。

一方今回は主人公の幼少期から始まり、その生活環境はなかなかに酷いものがある。

性的なことに巻き込まれたり、虐待と言っていいような事態にあるのは全て周りの大人のせい。容赦ない。だからこそ、その主人公の物語がどう着地するのか気になってしまうのだが。ハッピーエンド、バッドエンドで言えない作品は好きだ。悪いことが起こるから、ダメなのか、良いことが起きて幸せなのがイイのか、最近よくわからないでいる。

 


友達と電話しながら何かするというのは最近よくやっている。バチェロレッテもウォッチパーティを使いながら友達と電話しつつ見た。バチェロレッテに選ばれた女性が、10数人の中から、お相手を見つけるという恋愛リアリティー番組。一緒に見てたのが女の子の友達だったので意見違うこともあったり、なるほどな〜と思うことがあったから楽しかった。

 


そんなこんなで10時11時になると毎晩のようにスマブラをして寝る。友達がスイッチを買い始めた。遊び相手が増えるのはいいこと。スーパーファミコンのテニスと、ファミコンのアイスホッケーが楽しい。

 


これで11月が終わりそう笑

米の炊き方すら分からなかった自分。食事の支度をする母と座ったままの父。

今では自炊をするけれど、大学で一人暮らしを始めるまでは家庭科でしか料理をした記憶がない。米を炊くときですら、3合のメモリのところまで米を入れるのか、水を入れるのかすらよくわからなった。

 


10数年も毎日ご飯を食べていて何故米の炊き方がわからなかったのか。家で全く手伝いをしたことがなかったのだ。

 


更に思い返してみる。実家で親戚の集まりがあった時、料理をしていたのはおばさんと母。出来合いのものを買ってきていても、分配したり取り仕切るのは女性で、父やおじさん達は座ってお酒を飲んでいた。顔を赤くして、愉快そうな笑い声をあげていた。

 


別に母たちは虐げられていたわけではないし、僕も少し運ぶのを手伝ったくらいしかしていなくて、それが当たり前に思っていた。

 


なんで父はおじさん達は自分でしないのか?そう思ったのは本当に小さい時だけだったろう。そのうち、ごはんおかわり!と言うとたまに自分でつぎなさい。と言われて、おかしいな?と思った。無意識に言ったらしてくれるシステムがそこにあると思っていたからだと思う。

 


一人暮らしをして、自分でやらなければ何も出ない、何も無いことを改めて理解した。だから、今同じ状況に居たとしたら何もしないというのはとても違和感があることだと思う。誰かに「頼み」もなく何かをやってもらうということ。

 


支度をしていた親戚の女性や母がみんな、または大多数が毎回苦痛を感じでいたかといえばそれも違うと思う。役割というのはどういう時にすらある。(必ず何かしらみんな課されている。それが苦痛かはそれぞれによる)

 


自分と誰か、誰かと誰か、すべての関係を見る時、もし当人たちが満足しているんだとしたらそれを社会的道徳や倫理観を持って不幸だとか幸福だとか正解だとか思うことはやめにしたい。それぞれの場にそれぞれ適した関係がある気もするから、目の前の人との関係を大事にすることがやっぱり大事なんだろうなと思っている。

 

人が怒る時

 


人はどんな時に怒るのだろうか、

殴られたら痛い、痛いからやめてほしい、やめてほしいから怒る

大切な人や理由なく傷つけられている人を守る時にも怒る、それで止まって欲しいと願う、護りたいと思う。

この二つは納得ができる。

 


罵倒されたり、蔑ろにされたときに怒りや、イラつきを感じるのはなぜか。

大声とかはダメだ、うるさい音は耳に悪いし、不快だ。

 


物理的ダメージがない、罵詈雑言の場合、痛くはない。軽くみられたときにイラッとするみたいだ、一言で言えばナメられた時ってと

ころか。自分だけにムスッとしててサービスが悪いとか、まぁなんでもいいんだけど、実害なくても不快でムカついちゃうものだ。

 

 

 

言葉はとても変な感じだ、反芻したりして良くも悪くも一生覚えていたりする。でも、実体がない。そこには何もない。

言われた側言った側の意図に1番近い思いをそこに込めていうから、同じ言葉一つでも全く違う解釈をしてしまうこともある、さらには皮肉だったり色々だったりで、もう訳がわからなくなってるときがある。

さらに言えば言葉を知らなければ全く意味も通じないから、いくら悪口を言われても、話してる側のニュアンスが悪意に満ちていたりしない限りは何も思いようがない。

 


誹謗中傷で心を痛めてしまうひとは多いが、言葉自体に殺傷性はない、それをどう受け止めるかという話になってくる。同じ言葉でも傷つく人が居たり、流せる人が居るのは最終的には自分が受け止めるかという話だからだと思う、どう言っても。好きに言わせればいいと思っているわけでないけど、自分の心をコントロールするのは自分であり、主導権を握っている感覚はあったほうがいい思う。

 


ネットの社会は匿名で言いたい放題で良くないみたいなことをもう何年も聞き続けているけど、一体どんな幻想の世界を生きていたかと思ってしまう。

現実世界だって言いたい放題言っている人がいるし、きもい死ねみたいな悪口、陰口は日常茶飯事だし、毎日のように言葉で済まなくて、直接的に攻撃したり、悪意を持って行動する人が五万と居る世界だ。殺人事件が1件も起きてない街に住んでる人なんかいるのか?現実の方がイカれてると思う。踏みしめてる地面は戦争やらで亡くなった人たちの血でまみれている。そういうふうに生きてきた。

人間はそういうものなのに、大人になって、悪意を初めて見たみたいな人を見ると、幸せに生きて来たのだなと思ってしまう。

子どもはむかつく相手が居て、こいつはこれが嫌がるなと知ったときに、無垢にニヤリとする、嫌な笑顔、笑いだと思う。

年齢を重ねれば「道徳」が育まれていってそれは良くなかったんだと、思い込むことによって、その笑顔は減っていくけど、ずっとしてる人もいる。そういう感じ。やる側、サイテー。

 


他人の言葉で死ぬのは主導権を握られているみたいで嫌じゃないかと思う、このタイミングとか死にたい気持ちみたいなのは自分でコントロールした上でやるのが個としてできる最後の行動だ、社会の中の一つの生命として死ぬより、独立した一つの存在として死ぬ方がなんかいいと思ってしまう。

 


年齢を重ねれば孤独感というのが増すらしい、寂しい気持ちがどうしようもなくなっていくのかもしれない。痴情のもつれで人を殺してしまう老人達や1つ、2つ周り上の人を正直なところ嘲笑してしまう自分がいるけど、

未来の自分にとっては他人事じゃないのかもしれない。1番避けたいところに変わりはないけど。長く生きて辛いこと、いいことあって最後がそれなんて、最悪だと思う。

 


そう思うと感情をコントロールする術はやっぱりさっさと身につけておかないとダメな気がした、すべては体験からきてると思った方がいい、無から感情が出来ているわけではなくて、記憶と経験が作ってる。

「そんなふうに思えないんだよ!」と、思い込んでるだけだと、そう思いたい自分が居るだけだと。そうしたら、そんなふうに思えない自分も少しは受け入れられるかもしれない。

生活の慣れ

一人暮らしをしていると、きちんと生活できているか不安に思う事がある、台所のお皿の保管の仕方だったり、洗面台の汚れや、埃。誰かが遊びに来てくれるとき、最低限は掃除しているつもりだけど、その人の基準ではひどい有様だったらどうしようと思ってしまう。

 


去年体が痛くて起きている時間ずっと苦痛だったことがある。あわや手術まで話が行くレベルで片付けも出来ないでいたから、家は最高潮に汚かった。流れで泊まりに来たバイト先の後輩から冗談まじりにでかいゴミ箱だったと評されて、その時自分の家が社会的にアウトな範疇であることを思い知ったのだった。汚くなってるな…でも、どうにも出来ないし…という生活のを繰り返す中で汚さに慣れてしまっていた。

 


自分がその辺では割と何でもありなのでダメな境界というのがわからないというところもあると思う。誰かと住んでみるのもいいリハビリになるのかもと思った。

もう体も痛くないし、今は普通の綺麗さ部屋に住めているつもりでいるからこそ。

ヌマエビ

小学校のグランドの奥に小さな物置があった、そこには体育で使う道具などが置かれていて、その後ろには細めの幅の道と用水路があったけれど、立ち入り禁止で、そこには行ってはいけないことになっていた。でも子どものときはみんなそうだったろうけど、裏が大好きで、「裏道」、「裏」、「狭い道」というのにいつも行きたかった。

休み時間友達と3人で良くその裏の用水路に行った。そこには小さなエビ泳いでいた。

汚いなどという発想もなく手を突っ込んで、捕まえたエビを袋に入れて廊下で持ち歩いてると、校長先生に話しかけられた。びっくりしたけれど、校長先生は怒ることもなく、捕まえたのか〜みたいな優しい声かけだけをした。

 


今でも細い道があるとついつい通りたくなってしまうけど、出た先は大体住宅街で、面白いことはまずなかったりする。ひょっとすると、子どもの時だったら見つけていた細い道も今では見過ごしているかと思うと、もったいない気がする。それでもたかが、裏を純粋に楽しむような気持ちを今でも持っていたいなと思う。ヌマエビあれ以来見ていないかも、探してみようかな。

夫婦を羨む時

「夫婦」という関係について1番良いなぁと思う瞬間は、夫婦喧嘩の話を聞いたときだったりする。

 


「喧嘩のきっかけは些細なことで、感情がどんどんエスカレートしちゃって怒鳴りあっただとか、向こうが許せない一言を言ってきて、我慢が限界に来たのだとか、向こうも自分も怒鳴りあってしまった」

みたいな良く聞く話でだ。

 


例外もあるだろが、恋人とはまた違う距離感をここに、感じる。自分の場合だが、付き合ってきて大声で怒鳴りあったこともないし、カーッとなって思いもよらない言葉をかけた記憶もない、傷つけない言葉を探しながらしか会話した記憶がない、そしてそれが良いことだと思っていた。でも、蓋を開けてみれば良いあえてない=話し合えてない

ということでもあり、かえって傷つけてしまっていたりもするし、感情的になれないことがいいこととは安直に言えないよなとも思う。

 


夫婦関係にはそれを超えた信頼関係のようなものを感じる。穏やかだったたり、物凄く仲の良かった2人が夫婦喧嘩をすることも少なくないだろう。

わがままに道徳的でない発言をぶつけても、相手は自分を嫌うという、離れるとは夢にも思っていないような、それがどこか遠くにあるような気がしている。片方が相手に不安に思うことが怖ければ、一時的にでもストッパーのない夫婦喧嘩にはならないだろう。さらけ出せるというのは、究極的な甘えでもある気がする。だからそんなにも甘えられる人が居るというのは、とても安心感のあることなんだろうと思う。

 


とはいえ、マジでブチギレて離婚まで行く人もいるし、傷つけることは良くないことだとはわかっている。さらに夫婦当事者はこれだから何も知らない奴は…とお思いでしょうが、羨ましがれるのはそうなってない者の特権でもあるので、どうか許して欲しい。