アンネの日記
6月12日はアンネフランクが日記を書き始めた日だということだ。
アンネの日記という存在は本当に有名なもので、1度も読んだことがなくても書かれていた状況はなんとなく知っている。
ふと、気にになってwikiで見てみると、
15歳没と書いてあった。
15さい…。
読み進めていくと、だんだんとぼやけた何か遠い存在だったアンネフランクが近くに思えた。
彼女は迫害という渦の被害者である前に、1人の少女だった。
端々に出てくる日記に書かれたとされるエピソードは隠れている時の絶望の淵のような状況ではなくて、ごく自然な気持ちというか、全く理解できない特殊や話ではないのだ。
母や姉に対する思春期の不満は、自分も抱えたことがあった気がする。
彼女には暗いことだけを書きたくないという哲学があったようでもある、今でも力強く希望を持っていると書いてあった。
読書や裁縫や体操をして時間を過ごしていたという記載が、自分と何一つ大きく違わない生き物だということを感じた。
自分より偉大だとか心身が丈夫だっとか、そういった考えはより一層誰かと接するときに外しておきたいと思った。その一言で片付けるには軽過ぎてしまう。
ゲシュタポに見つかり、家族と今生の別れが淡々と記載されていく。
胸が締め付けられる思いがした。
でも、知りたいと思った
翻弄される中で必死に命を紡いでいく姿、満足に食事も与えられない中で、彼女は収容された場にいる友達と、素敵な食事のメニューを考えては順に話したそうだ。
そのうちに姉とアンネは病気で亡くなった。
それが15さい。
彼女は小説家志望だった、日記のほかに幾つかの短編を書いていたようで、その短編はタイトルからどんな物語なんだろうかと思わせてくれる深みのようなものがあった。
彼女の日記をきちんと読みたい。彼女はこの日記がこんなに多くの人に読まれていることを知らないだろう。残されたもの達のためだけに流れる時と、出来事。
もし彼女が…と思わないではどうしても居られないのだ。
アンネの日記と映画と短篇をみようと思う。
小学生の頃にこのアンネの日記を見ても今あるよな感情をわかせることは難しかったであろう。それでも、読んでいれば何か思うところがあったろうに、と少しの後悔。
やはり可哀想だけじゃないなにかを、俺はあらゆることから見つけたい。
もし、天国というものがあるなら、
好きなだけ文字を書いて幸せで居て欲しいと願うばかりだ。